そのラリアットはマジでヤバい

おっさんIT系サラリーマンの自意識が高ぶったときに、ふとぶちかます雑記です。

仏と死

突然何を言い出すんだと思われるかもしれませんが、こないだブッダと同じ体験をしたんですよ。ブッダってあれですよ。みなさんご存知なことだと思いますが、ブッダというのは元々はインドの王子様で、何不自由ない暮らしをしていたところから、ある日街中で老人や病人、死体などを見て衝撃を受け、それが出家のきっかけになったと言われています。しかもそん時35歳とか。私はこの話を聞いた時、思いました。

 

ブッダ、お前アホなのかと。

 

30いくつにもなって、病気や老い、死というものを知らんかったんかいと。思っていたのですが私も42のこの歳になってわかりましたよ。ブッダがなぜ出家したのかと。30いくつにもなって教養溢れる王子様だったブッダはそりゃ、老病死を知らないわけがありません。知っていた。ガンガンに知っていた。なんなら熱が37度4部くらいでそんな重くないのに『今日熱出たから学校やすむぅ』って言って11時くらいまでは教育TV見てワクワクしていたけど、突然手話ニュースになって寂しくなり『やっぱ学校行けばよかったな』って思うくらいには病気も知っていたと思うんですよね。

 

でもリアルな病人、死体、老人を見たことがなかったと思うんですよ。もっと言えば、本当に末期の、もう助からないことが誰の目にもわかる、苦しみにのたうち回る病人を、意識のはっきりした年になって、自身の近くにある現実の一種として理解してなかったと思うんです。また死体という概念は知っていたけど、腐ってウジの湧いた見るも無惨な死体を、自らと重ね合わせていつか自身もこうなるのだと思っていなかったし、その病人や死体になりゆく老いという概念を抽象的ではなく、具体的な自らに今起こっている生理現象として捉えていなかったと思うんですよね。つまり死を本当の意味で実感していなかった。

 

でもこれって、私もそうでしたからね。

多分、みなさんもほとんどそうなんじゃないかな。

 

今日、父親と病院に行ったんですよ。総合病院でちょっとややこしいことになっていたので、いろんなところたらい回しになっていたのですが、みるとね、行くところによって全然雰囲気が違うんですよ。呼吸器内科とかね、メジャーどころは老人こそ多くてもそこそこみなさん元気というか、賑わいがあるのでなんてことない日常の延長線なんですけど、地下のある一角にあるところは人がいるのにとっても静かで、照明もちゃんとあるのになんて言ったらいいのか、すんっとした雰囲気なんですよね。見ると老人だけじゃなくて子供とか若い人もそこそこいるのに、ざわめきが全くない。

 

放射線

 

言っちゃなんですが、ガンの人たちじゃないですか。この先、かなりの確率で命を失う可能性が高い病気になっていることが自らわかっている人たちなんですよ。老人だけじゃない。本来ならはしゃぎたい年頃である子供たちや、若い青年だっていますが、付き添いの人たち含めて、みんなとても静かなんですよね。当たり前ですけど、その人たちを見て思ったんですよ。なんて声をかければいいのかなって。もし自分がこの人たちと親しい間だとして、なんと言えばこの人たちに誠実であるということなのだろうって。初めて「病」を具体的に自分ごととして捉えたんですよね。

 

悲しいかな、日本という先進国の一つに住んでいながら、二十年近い義務教育と二十年近い社会人生活を経ていても、明日が希望ある未来だと限らない人たちにどう向き合えばいいのか全然わからないんですよね。ただ気持ちを盛り上げる中身のない前向きな言葉を並べ立てるのも違うと思うし、同情したり悲しんだり憐れむのも違う気がするし。かといってブッダのように悟ったふりをして、死ですら無常の一部としてただ風に散る花びらと同じものとするには、あまりにも無責任であるように思ったんです。

 

人類が誕生して何千年なのか。死というどこにも、誰にもあるものを認知したのがいつ頃なのか。老いや病気を認知し、それをどのくらいの期間越えようとしてきたのかわかりませんが、誰もが嫌なこれらの現象を我々は頭ではわかっていますが、本当に自分ごととして捉えた時に、果たしてどう振る舞うべきか。それらを大体の人たちはわかっていません。そして答えなんてないのかも知れません。

 

ただあの静かな放射線科の雰囲気に、ブッダが悟りを得たくなった理由を見た気がしたのです。そしてそれは、多分ほとんどのみなさんが人生のどこかで感じることなのだろうと思います。誰もが昔から知っているのに誰も答えを知らないこの問題に、私もこれから向き合うことになります。答えを求める気はありません。正しいとか間違ってるとか、多いとか少ないとか、前向きだとか後ろ向きだとかよりも、

 

 

真摯に向き合えたかどうか。

 

 

そこが問われると思っています。