そのラリアットはマジでヤバい

おっさんIT系サラリーマンの自意識が高ぶったときに、ふとぶちかます雑記です。

ほんの2ヶ月間で父が亡くなった話

 

よく、マンガやドラマなんかで出てくるいい感じのセリフで、「辛い経験があった分、人は他人に優しくなれる」みたいなのってあるじゃないですか。だとすると今の俺は多分、めちゃくちゃ優しくなっています。世界最強に優しくなったんじゃないか。どのくらいかっていうと、ガンジーマザーテレサを足してキング牧師をかけて、チェーンソーで3人もろとも横にぶった斬ったくらいには優しくなっています。めちゃくちゃ血飛沫とぶ。

 


やおいおい、どんだけ辛い経験したの?と聞かれたならば、父親をがんで亡くしました。うむ。わかっておる。わかっておるとも。こんなこと自己顕示欲の掃き溜めみたいなブログに書くべきなのか?誰が見たいんだ?何を得たいのだ?とか思いましたが、間違いなく今この瞬間じゃないとこの熱量で書けないし、記憶もすぐに薄いらいじゃうだろうし、親をなくすこと自体は別に特別なことでもなんでもなくてみんな経験することだろうし、ガンもかかる人も多いだろうから、こんなクソみたいな経験でも誰かの何かの役に立つかも知れない、と思って記します。また同時に、私自身がこの混乱した状況で少しでも心を落ち着かせるためでもあるし、また同時にやるせなさと怒りを鮮明に残しておくために、今書いておくべきだと思ったのです。

 

 

 

もし気分を悪くする人がいたら申し訳ない。

そしてめっちゃ長い。

 

 

 

🔳父について

父は今年で78歳。10年前に母が亡くなった際に戸建を引き払い、単身でエレベータなしの3階にあるアパートに住む独居老人です。子供は私と兄の男2人。すでに仕事は長いことしておらず、現役の商社マン時代に培った韓国語を公民館で韓国どころか隣の市にも行けなさそうなジジババに教えることと、たまにロイヤルホストで500グラムのステーキを食うのが趣味で、とにかく声が大きく元気なジジイでした。

 

 

 

🔳昔の肺ガン手術

若い際には182センチほどある巨躯のバブリーパワフルおじさんであり、さすが商社マン、毎年9割は海外におり、1割日本にいる際にはほぼ毎日接待で夜中1時くらいに300メートルくらい家から離れたところから大声でチェッカーズを歌いながら帰宅し、そのあとナイアガラのようなゲロを吐くという生活をずっと続けておりました。当然タバコも酸素より吸ってました。で、そんな生活をしてたらまだ現役バリバリの2000年。50歳ごろにその生活の反動が来たのか、健康診断で肺がんらしきものが見つかってしまったのです。当時パワフルエナジーバリバリだったバブリー商社マンだった父はかなりショックだったようで、当時こう思ったそうです。

 


「気のせい」

 


そう医者の忠告を聞きもせず、なんもせずに翌年同じく健康診断を受け、医者からこれ、小さいけど多分ガンだからお前はよ治療受けろや!と言われましたが、なんか怖かったので逃げたそうです。そんで次の年も言われたけど逃げた。その次の年も見て見ぬふりをした。そして4年目にもなるとガンもそこそこの大きさになっていたので医者もブチ切れ、とうとうガンより医者の方が怖くなったので手術を受けたそうです。そしたら肺の一部を切除する羽目になりましたが、バブリー照射マンの体力恐るべし。抗がん剤の副作用も全然なく、すぐに回復してなんともなく仕事をしていました。ここら辺私もお見舞いに行ったことを覚えていますが、手術直後は声がカスカスのカスになっており「近いうちに死ぬな」と思ってたら半年後くらいにバリバリに元気になっててビビったのを覚えています。そんでまたタバコ吸ってましたからね、タバコ吸いながら俺に「タバコすうな」って言ってて驚いた。その厚顔無恥さに。

 

 

 

🔳始まり(19年〜23年3月下旬まで)

そんなパワフルジジイだった父。10年ほど前に突然伴侶である母を亡くしたのに頑固なジジイなので寂しいとかも言わないわけですよ。ですがさすがにこりゃ弱るだろうと思い、私は孫にあたる娘を連れて1ヶ月に1度は父と飯を食う機会を作っておりました。そこそこ喜んでいるようで何よりと思っておりましたが、19年にコロナ禍になってからは肺が悪いので感染を恐れて会えなくなってしまい、週に一度はテレビ電話で話してはおりましたがほぼ直接の面会はなくなってしまいました。

 


それでも相変わらずロイホのステーキをバリバリ食べてはおり、相変わらず耳がビリビリするほど声がデカい。医者には定期的に通っており、月一でガン検診も受けておりましたがマジで何もなく。昨年心臓の検査で数日入院した以外は本当に全然元気でしたが、ようやくコロナ禍が終わろうという気配を見せてきた今年23年3月初めに、突然こんなことを言い出したのです。

 


「腰が痛え」

 


まあ、そりゃあねえ。78にもなりゃ腰の一つや二つ、痛くもなるだろうと当初は私も全く心配していませんでした。ただ1週間しても2週間しても治るどころかすごく痛いと言い続けるので病院を進めると整形外科に行ってきて、その際にレントゲンを撮ったら何か背骨に影があるとのこと。整形外科医曰く、これはひょっとしたらガンかも知れないので、整形外科ではどうにもならない、かかりつけの医者に行くべきとのこと。私もえ?そんな大袈裟な?と思いましたが、本人の痛がりようがちょっと尋常じゃなくなっていたので、私も付き添いでいつもお世話になっている月に一度のがん検診の先生のところに行ったのです。これが確か、4月の2日とかでしたかね。

 


🔳ガン?(4月上旬)

肺の手術をしてからはや20数年、父がズーっと月一でガンの定期検診でお世話になっていた先生のところへその検査結果を見せたところ、素人の私にもわかるくらい先生の表情がサーっと変わって行きました。先生は青ざめた表情で「入院しましょう、すぐにでも」と話し、その場でどこかに電話をかけて入院先とベッドを確保してくれました。病状についてはガンだとは直接的に言わなかったものの、その行動の迅速さと切迫感に「ああ、こりゃ骨のがんなんだな」ということがわかりました。同時に「この先生、父のガンを見落としてたのかよ・・・」とも思いました。そして、検査結果からは肺に腫瘍のようなものがあり、おそらくこれが転移したのではという話も。父も初めての経験ではないにしても大層驚き、落胆しておりましたが先生の迅速なアクションと姿勢に感謝しつつ、週を跨いだ2日後の月曜に着の身着のままで即入院、となったのです。

 


🔳超スピード入院(4月上旬)

この時には杖をついて耐えかねる腰の痛みを誤魔化しながら、ゆっくりとですがまだそれなりに軽快に歩いていた父。巨大な某大学病院に即入院が決まりましたが、私の家からも父の家からも超遠い。私も入院の日に付き添いましたがつい最近まで元気に歩いていた父が急に杖をついて歩くのをみて、「これはもう、ひょっとして退院できないのでは…」という漠然とした不安が一瞬頭によぎりました。ですが本気でそう思っていたわけではなく、これから行う放射線治療で腰の骨を固めれば、元気に走り回るまではいかなくとも、自立した生活を送ることはまあ、できるだろうと思っていたのです。

 


そして以前少し書きましたが、この時にいた放射線科の雰囲気はなんというか、言葉では表せない雰囲気でした。皆が皆、ガンという病気と戦っているので当然なのですが、他の外科や内科のざわつく感じとは全く違う、廊下では話す人もおらず、静かに皆俯いているあの感じ。同じ病院なのに一番死に近いからなのか、その重苦しい静けさの中で父と2人。私も不安な気持ちではありましたが、当事者である父はもっと不安だったでしょう。終わった後には痛みはあるもののまだ元気ではあったので、くだらない話や医者の悪口を言って気を紛らわしてはいました。

 

 

 

🔳退院?なんで?(4月中旬)

で、入院しながら放射線治療をしていく生活が1−2週間ほど続きました。かなり私の家から遠方の病院であることと、コロナの影響で平日に10分以内!という制限があったお見舞い(でも入館時に見舞いの書類をわざと書かなければ10分後に呼びに来ないことを学習しました)でしたが、有給を使って週に1−2度は顔を見に行っていました。これが4月の中旬くらいまでですかね。たかが2週間、されど2週間。毎日続く放射線治療っていうのは身体へのダメージがすごいらしく、父はラジオもテレビも聞く力がない、とベッドにほぼ寝たきりとなってしまいました。声や発言自体はまだ全然元気ではあったのですが、特に治療の後はぐったりと動かなくなってしまい、同時に痛みをセーブするための医療麻薬を服用し始めたので、食欲が激減してしまったのが気になるところでした。日頃アホみたいにもりもり食っていた父が、この1−2週間でかなりやつれていたのは覚えています。

 


また放射線治療ってのは別に骨ガンを治すわけじゃなくて、あくまで進行を食い止める、つまりガンでボロボロになって背骨が崩れる前になんとか形を留めるという意味合いのものです。痛みは確かにかなりおさまったようですが、すでにこの2週間で今までのように歩くことはできず、杖をついてなんとか自律歩行が可能、というレベルになっていました。車椅子も院内の長い距離の移動時には使うようになり、その車椅子への移動もかなり慎重に行わないと痛みがすごいらしく、ゆーっくり体を支えながら行うようになっていました。

 


そして主治医の先生は2ー3日に一度様子を見に来ていたのですが、この頃から「一度家に戻らないか」という話をするようになりました。??最初聞いた時は本当に意味がわからなかったのです。だって入院ってのは治療するために行うものじゃないですか。そのために即日病院のベッドを抑えてくれたのでは?まだ放射線治療で痛みを抑えただけで、検査も診断もされていないし、ガンです!とも誰にも言われていない。それなのになんで家に戻るの?とまじで意味がわかりませんでした。

 


🔳どこに行けばいいのか・・・(4月中旬〜下旬)

どうやら先生方の意見をまとめると、今回の入院は放射線治療の名義で行われているもので、治療は外来(=一度帰宅して、そこから通院する)形でないとできない、また保険の関係でも一旦リセットしないといけない、と言われたのです。正直、全く意味がわかりませんでしたが毎回同じ説明をされるので仕方なく従わざるを得ません。ですが、父の今の家はエレベーターがないアパートの3階。現在のロクに歩けない状態で戻れるわけがありません。私の家も玄関に入るのも階段があるし1階に父の住めるスペースは残念ながらありません。何より通院と言ったって、父の家からも私の家からも電車でも車でも2時間はかかる。こりゃもうどないせえっちゅうねん!と医者につかみかかりフロントチョークでも決めてやろうかと思ったのですが、看護師経由でソーシャルワーカーの方と一時退院先について相談する機会がありました。その際には、病院に近い介護ホーム的なところに住むのが良いのでは、とのこと。そして今後の検査と診断の結果によるが、介護ホームの場所は病院の近くか、もしくは通院頻度や病院の場所によっては私の家の近くが良いのではとのことでした。

 


もうこうなれば動くしかねえ!と速攻で私は仕事の合間に自宅近くの介護ホームを複数回り、また適当な出張と嘘こいて病院周辺の介護ホームも見学しました。これで介護ホームと言っても自立度の高い人向けのものから、完全に末期がんや認知症向けのホスピスと呼ばれるもの、そしてその合間にあるいくつかのものにもグラデーションがかなりあることを学びました。でもどこも女性が9割で、平均年齢は90歳近いということも衝撃でした。やっぱ男は早く死ぬんだなあ・・・

 


いくつか見てソーシャルワーカーの方とどこにすべきか相談したのですが、その際におそらく主治医とも話したであろうソーシャルワーカー側から、「ホスピスにすべきでは」という提案があった時には、ああ、やっぱりなんだかんだ言って名言はされていないけど、病院側は末期ガンだと考えているのだな・・・とショックを受けました。だって主治医自体はまだガンとも末期とも一言も言っておらず、検査するために一時退院しましょう、としか行ってませんでしたからね。

 


🔳腫瘍の検査(4月末)

そして上記の転居先探しと並行して、ようやく骨ガンの原因となった肺の腫瘍の検査がありました。ただ肺から管を飲み込んで、腫瘍の一部を切り取って検査にかけ、それがガンかどうかを判断する・・・というものだと聞いていたのですが、その結果はなんと、「ガンだとは言い切れない」というものだったのです。そして治療については何も方針なし。変わらず転居先を探して外来で通院してくださいとのこと。いや、いやいやいや。いやいやいや!!!明らかに骨ガンだから放射線治療してるし、腫瘍がその原因であることは誰がどう見ても明らかなのに、たまたま切り取った一部がそうじゃないから何もしませんって、そんなバカな話あるかい!!!!私ですら怒りに満ち溢れたのですから、きっと父も相当腹立たしかったことでしょう。同時に色々考えることもあったのかもしれません。この頃から自分がもし死んだ後のこと、遺産とかお墓とかの話をするようになってきました。

 

 

 

 


🔳転院(5月上旬)

そんな状況でも、はよこの病院をでなさい的な圧は続きます。しかし治療方針も何もない、どこの病院でどんな治療をするかもわからない。つまり住まう場所を決める一番重要な要件が決まっていないってことです。出て行けって言っても、じゃあどこに住めと?マジで意味わからん、と思っていたら私のいない場所で父と主治医の先生とで話し合いがあり、昔から父がよく知っている同じ大学病院の別の拠点に越したらどうか、とのことでした。そこなら確かに私の家からも、父の家へもだいぶ近いし、何より父が心理的に安心感がある。父はよろこびましたが、逆にその別の拠点は現在は治療が目的の場所ではないので、あくまで一時退避先であり、そこに越してからさらにホスピス(介護ホーム)を決めて、そこに移ってから本格的な検査と通院が始まる、とのことだったのです。

 


?ちょっとよくわかんねーな、だったら検査だけでも今のまま受けて、そこからホスピスなりに移った方が良いのでは?とも思ったのですが、父が喜んでいたし時間もないってことだったので深く考えず、GW中の5月8日に転院しました。約1ヶ月ほどの入院期間ではありましたが、だいぶやつれた父は寝たまま介護タクシーに乗り込みました。久々の外出(とは言っても車で移動しただけだけど)は少し気分転換にもなったのでしょう。少しいつもより明るかった気がします。今思えば。

 

 

 

🔳断絶(5月8日)

そして介護タクシーで2時間ほどのドライブの後、同じ大学病院の別の拠点に移ってきました。私と父で転院し、諸々の手続きや説明を受けていたのですが、その転院先の医者(主治医とは別の医者、以後転院医者)と話していると、どうも話が噛み合わない。おかしいなと思いながら話していると、衝撃の事実が判明していました。どうやら転院医者は、主治医から何も話を聞いてないとのことでした。診断内容とか治療方針はどうなっているんですか?と私と父に聞いてきた時には衝撃でしたね。いやいやいや!それわしが一番しりたいっツーの!それするために一時的にせよ、こっちに移ってきたんちゃうんかい!と。少々キレ気味に話していると転院医者も状況を理解したのか、元の主治医から私宛に電話させ、ようやく電話越しにですが現在の状況と治療方針を教えてくれたのです。

 


その内容によると、なんちゃら検査というものを受けねばならぬのですが、それがかなりの放射線量を伴うので入院ではできない、だから外来で通院する必要がある、だから転院先からさらに介護ホームにはよ移るべき、とのことでした。ちなみにこの時このなんちゃら検査っていう言葉を初めて聞きました。いやー、正直驚きと落胆がすごかったですね。この時は。だって何十年も父と関係性がある主治医なのに、情報共有もできてないし、診断結果をちゃんと説明すらできていなかった。そしてそれを転院医者から指摘されて電話越しでようやく行うという。この時は父もかなり怒り、というかほぼ落胆してましたね。そりゃそうだ。

 


ガンの検診を長年受けて、3月下旬にがんを見落としていた(医者側の言い分はきっとあるのでしょうが、結果的には)けど、速攻で入院アクションをとってくれたから信頼して命を預けたのに、よくわからん理由で転院させて、その転院先にロクに情報共有できていない。見落としていた負目があるだろうから、きっと最後まで親身になってくれるに違いない!というゲスな見方をしていなかったわけではありませんが、これでは逆に、負い目になっていた患者を追い出して気が楽になったようなもんじゃないですか。この時が主治医と父と私の心理的な断絶のきっかけになったことは間違いありません。

 


🔳少しだけ希望(5月9日ー11日)

しかし悪いことばかりではありません。転院医者は主治医と私との電話が終わった直後にこう言いました。「その検査、すぐにやりましょう、12日はどうですか?」さっき主治医の方から外来でないとできないと言われたばかりなのに、すぐやるってどういうこと?また追い出されるの?と思っているとそうではなく。主治医のいる本社(本院?)側は理解してない人もいるが、その検査はこちらの転院先であれば他の病院と連携して空きさえあればすぐにできるそうです。なんだよ!なんなんだよ本当に!怒りこそ覚えましたが転院医者には感謝しかありません。受けるよすぐに!それが受けられれば、検査結果を元に治療を始められるんでしょ?そりゃ受けるよ!

 


そしてあまり書いていませんでしたが、転院時から父の体調はすこぶる悪化しておりました。服用していた医療用の大麻の影響か、それとも放射線治療の影響なのか、もしくはガン(とまだ説明されていないけど)の影響なのか、すこぶる食欲がなく、病院食もほぼ手をつけず。ほっとんど何も食べない日々が続いていたのです。食べてもうどん3本とか、そんな感じで、栄養ゼリーとかを差し入れしても何も食べない状態でした。しかし声色は別に普通だし、肌色もそんな悪いわけではない。ちょっと楽観視しすぎかもしれませんが、一緒にいて話をして居ても看護師につまらん冗談を飛ばしたりしているし、まだ死が近いとは全然思っていませんでした。

 

 

 

🔳何ちゃら検査(5月12日)

そしてすぐに検査の日がやってきました。また介護用タクシーで少し離れた病院へ向かいます。この時、父が生まれた場所を少し通ったのですが、緑内障白内障で見えづらい父にも街並みの雰囲気が見えたらしく、色々思い出を話してくれました。今まで入院中は自分の体調や病状、これからの治療などの話が多く、重い雰囲気になりがちでしたが、思い出話をする父は大層嬉しそうだったのが印象的でした。あー。しまった、昔のアルバムとか持ってきて、もっと思いで話をするべきだったなあ、そういえば父が中学生時代に亡くなった祖父の話や、仕事の話なんて全然聞いてなかった。すぐにでもアルバム持ってきていっぱい昔話を聞き出さねば、と強く思いました。

 


検査自体は数時間で終わったのですが、病院内の短い距離でも車椅子を使わねばならないこと、また肺が弱っており酸素ボンベをさらに椅子に背負わねばならなかったこと、車椅子に座っても筋肉が弱っており体が痛いということ。車椅子を押しながらも、ああ、まだ入院してからそんな時間も経ってないのに、なんで父はこんなことになってしまったのか、と漠然とした暗い気持ちでおりました。ただ、劇的な回復はしないまでも、きっと延命はできるはずだ、残された時間を最大限に引き延ばして、できるだけ父に安心してくつろいでもらうようにしなければ、とこの時も思っていたのです。

 


そしてこの時、病院を出る際に偶然すれ違った転院医者に「父が弱っているから、孫にあたる私の娘を会わせたい、どうにかできないか」と相談しました。こちらの転院先もコロナの影響で面会は制限されており、小学生は立ち入りすら本来はできません。しかし転院医者は私の差し迫った思いを察してくれたのか、特別の看護師に話を通してくれ、次の日曜14日、本来であれば誰も面会できない日に特別に許可をくれたのです。

 

 

 

🔳急変(5月13日)

翌日、私はランニングが趣味なので、早速父のアパートにある昔のアルバムを持ち出しに、自分の家から父の家までの13キロを走っておりました。朝7時に到着し無事アルバムをゲットし帰宅。写真を整理しつつ、娘に明日14日に見舞いに行く際に渡すための手紙を書いてもらい、どんなことを明日話してもらおうか、娘にとって聞いたこともない祖父や先祖の話を聞き出しても、娘も飽きちゃうかなあ・・・などと考え事をしていました。そして夕方、娘の習い事に付き添っていた最中、入院先の病院から電話があったのです。

 


「お父さんが危険な状況になりました、すぐに来れますか?」

 


?正直、言っている意味がわからず、かけ間違いかなと思いました。だって昨日まで弱っていたとはいえ、普通に世間話をしていた父が急に危篤?なんで?え?頭を真っ白にさせながらも、習い事中の娘を妻に迎えに行ってもらい、私は病院にすぐさま向かいました。

 


そこにいたのは、まるで病院ドラマのようにいろんな管に繋がれ、鼻に酸素チューブを入れられ、息を荒げて苦しそうにしている父の姿でした。横には点滴や薬がチューブを伝って父の体に流れ込み、ピッ・・・ピッ・・・と脈拍や血圧を映し出す、小型の液晶が機械的な音を流しています。ああ、危篤ってやっぱり、こんな感じになるのか、と他人事のような気持ちでいながら、変わらず真っ白な頭で医者の説明を聞いていました。どうやら肺の一部が出血し、4分の3にあたる部分が機能していないこと。片肺の一部でギリギリ呼吸しており、とても危うい状況であること。このままだと危ないので、モルヒネ睡眠薬で呼吸を楽にさせてあげること。そして、残念ながら回復の見込みはないこと。

 


回復の見込みがない?いや、頭ではわかっていました。入院した時から、以前と同じように走り回るくらい元気にわけじゃないってことは。でも、わずか2ヶ月でこれだけ死に近づくなんて、本当に思ってもいませんでした。いや、いやいや、どんなに短くても、半年は生きるんじゃないの?ガンだってまだ、まともに診断すらされていないのに?治療も始まってもいないのに!もうすぐ死んでしまうのか!つい昨日、昔話を聞こうって、娘を連れて行こうって思ったばかりなのに!手紙だってついさっき書いたばかりなのに!元気になってねって、書いてもらったばかりなのに!

 


🔳娘との面会

医者の説明を受けながら、私は習いごとが終わるタイミングの娘を今すぐ病院に連れてくるよう妻に電話しました。本能で直感しました。今会わないと、本当に後悔することになる。そして意識があるのは多分、あと数時間なのだろう。息を荒げ、とても苦しそうにする父は、荒ぶる呼吸の中、単語をようやく1語ずつ発するのみ。それも「苦しい」とか「そうだ」とか、断片的なものだけ。今まで腰や背中を痛がり、痛い痛いと言っていたのがようやく治ってきたというのに、今度は呼吸で苦しむなんて…きっと今娘や妻が来たって、会話なんてできっこない。それでも今会わないと、きっともう会うことはできない。だからすぐ来てれと妻にいい、苦しむ父に頑張ってくれ、と声をかけ続けました。

 


約1時間ほどして、妻と娘、そして近くにいた妻の母、お義母さんが来ました。父に会う前に娘には、「じいちゃんは見たこともない姿になっているから、きっと驚くかもしれない。怖いかもしれないが、これが多分最後になるから、手を握って、大好きだよって言ってあげてくれ。そしたらすぐに帰っていいから」と伝えました。そしてこの時、私は初めて涙を流しました。嗚咽しながら娘にいいふくめ、父と引き合わせました。

 


娘も妻も義母さんも、驚きつつも一言二言交わし、父は苦しむ呼吸の中、「来てくれてありがとう」とそれぞれと握手を交わしました。娘は大好きだよ、と小さな泣きそうな声で話しかけ、父は少し笑いながら微笑みました。おそらく時間にして3分もなかったのではないでしょうか。重苦しい空気の中、私は娘たちを送り出しました。

 


🔳兄

そして、娘たちが帰ったのち、私が呼んだ兄も到着しました。ここまでなぜ兄の話が出なかったのかというといくつか理由があります。それは兄は私より遠くに住んでいること、まだ小さい子が3人いること、奥さんも働いていること。だから私が父の付き添いなどを行っていたのですが、もう一つの理由は、せっかちで短気な私と父と、のんびりやの兄が全く気が合わないことです。悪い人間ではないのですが、空気が読めないというかなんというか、ラインで父の切迫した状況を連絡しても半日以上連絡がないこともザラで、なんというか緊迫感というか当事者意識というか、決定的に欠落してるんですよね。そのくせ口に出すのはやすっぽい流行曲の歌詞のようなうわついた話ばかりで、今回の一連の状況においても、付き添いしたり介護ホームを探したりするような具体的な行動は全くしません。おそらく父もそんな違いを見て兄ではなく、私に連絡してきていたのでしょう。

 


以前から父は「顔見せにこない」と兄のことを言っていたので、兄に(電話で話したくなかったため)私はラインで何度かぶちきれつつ「面会に行ってやれ」と伝えていたのですが、平日10分という形式上のルールのためか2、3度来たっきり。正直この今際の際においても少しだけ兄を呼びたくない自分がいました。そして兄が駆けつけてきてから、私はやっぱり呼ぶべきじゃなかったな、と思ったのです

 


なぜなら、呼吸をあらげとても苦しそうな父に対し、私は嗚咽しながら見守ることしか出来ないのですが、兄はまた「おやじさん、苦しそうだなあ〜」などと呑気なセリフをニヤニヤヘラヘラしながらほざいていたのです。こいつどんな頭してるんだ?今まさに死ぬって状況で、なんでそんな態度が取れるんだ!?いくら混乱していたとしても、周りを和まそうとしていたとしても、そんなヘラヘラした態度は普通なら、絶対に取らない。しかも苦しそうにする父の胸や手を何度もとろうとします。それは私が少し前に触れた際に父が嫌がっていたのですぐに辞めたのですが、兄は何度もやろうとして父が手を振り切っているのにまだ胸をさすろうとしています。いやいや、こんな状況の父がやめろって言ってんだからやめろって!それは父のためじゃなく、労わろうとしている自分をアピールしたいだけだろう!!

 


徐々に睡眠薬モルヒネで弱っていく父と少し離れ、私は兄と別の部屋に移り、ブチ切れました。お前、何考えてんだ!父が死ぬんだぞ!ヘラヘラすんじゃねえ!それにな、言いたくなかったけどお前なんで見舞いに来ねえんだよ!不安がってたのがわからないのか!と責める私に対し、「有給使い果たした」「俺はできる限りやっている」「子供が大変だ」「お前だってできてない点はある」などとオドオドと言い訳を述べる兄に涙を流しながら私はブチ切れ続けました。この2ヶ月、父の延命と安寧ばかりを祈って必死にやってたのに、なんなんだ!家族や距離や仕事を言い訳にしやがって!お前、自分の子供が同じことになっても、仕事や他の家族を言い訳にして顔を出さないのか?それで本当に向き合ってると言えるのか?レベルが低い言い訳言ってんじゃねえ!と。他にも色々言ったかもしれません。数日経った今でも言いすぎたとは思っていません。最後の方は「すまん」と言い続けていましたが、そこにもこれ以上傷つけられたくないという保身の匂いを感じてしまった私はもう何も言いたくありませんでした。

 

 

 

🔳幻覚(5月13日夜〜14日)

そんな言い合いをしていてもすでに終電の時間をすぎ、我々兄弟と看護師と、苦しみ続ける父との長い夜が始まりました。呼吸をあらげ、苦しい、熱い、と言い続ける父は、次第に睡眠薬モルヒネで幻覚を見始めたのです、ゼエゼエはあはあ言いながら、「あの光はなんだ!けせ!」「あの小さなスイッチはなんだ?」と意味のわからないことを言い出しました。動揺する我々兄弟よりも先に看護師の方々がやわらかくいなして対応しているのを見て、私はようやくこれが薬による幻覚だと理解しました。理解しはしたのですが、つい先日まで体は弱っていたものの意識はしっかりしていた父が、訳のわからないことを言い出したショックはとても強く、さっきまでの涙とはまた違う涙が出て止まりませんでした。

 


そのうち、「あっちの部屋!(に移りたい)」「帰る!」と言い出したり、「起きる、起きる!」と体中についた管を引き剥がして起きようとする父。それも荒ぶる呼吸と薬で聞き取れるか取れないか危うい呂律になってきています。すでに朝も近づく深夜。5分おきに訳のわからないことを言って起き上がったり、チューブを取ろうとする父を諌めるのは、精神的に本当に本当に辛かったです。父も辛かったでしょうが、私も頭がおかしくなりそうでした。体格がよく、体力があるからこそ、睡眠剤を濃くしても全く寝入る様子はありません。時々血の溢れる痰を吸い取ってもらいながらも、自らの肺の中の血に溺れ続け、苦しみ続けながら、幻覚に朦朧としながら暴れ続ける父。

 

 

 

父ちゃん、違うんだよ、ここは病院なんだ。帰ることもできないし、申し訳ないけど、起きることもできない。寝ているしかないんだ。起きても、違う場所に行っても、父ちゃんの苦しみは無くならないし、チューブをとったら、もっと苦しむだけなんだ…

 

 

 

心の底から、父と肺が交換できるならしてあげたい、今俺が死ねば父が助かるならすぐにでも殺してほしいと思いつつ、看護師と共に暴れる父を抑え続けました。

 

 

 

🔳小康(5月14日〜15日)

そんな地獄のような夜もあけ翌朝、ようやく父も荒い呼吸のまま、目を開けたままですが寝たようです。私と兄は看護師とともに一睡もしていません。まさか泊まることになるとも思っていなかった私と兄は、交代で父を見守ることにし、まず私が一旦家に帰ることにしました。本当なら少し寝て、夕方にまた病院に戻るはずでしたが、家にもどってもこの瞬間に父が息を引き取ってしまうのでは?と気が気でならず、娘が本来であれば見舞いの時に渡すはずだった手紙を握り締め、シャワーを浴びてすぐに戻ることにしました。

 


兄は速攻で戻ってきた私に大変驚いていましたが、とりあえず兄を家に帰し、父と共に2晩目の夜がやってきました。しかしある程度モルヒネが効いているのか、今度はそれほど父は暴れることもありません。しかしこれは逆に父が死に近づいているようで、そしてもう2度と話すことができないという事実を突きつけられているようで、またも涙が溢れて止まりませんでした。そしてこの時から徐々に心拍が弱まってきたのか、心拍計が異常値を知らせるビープ音を頻繁に鳴らすようになってきました。何度も言いますが、まさに医療ドラマで患者が死亡するときのまんまです。夜中に椅子を並べて仮眠しようとしても、このビープ音のせいで全く寝ることができません。管に繋がれ、呼吸をあらげて目を開けたまま眠る父と、椅子を並べビープ音が鳴るたびに看護師を呼ぶ私。何度も父に話しかけますが、反応は全くなく。娘の書いた手紙を何度も目の前に差し出しますが、見ているかどうかもよくわかりません。この晩も枯れ果てるほどなき続け、気づけば朝になっていました。

 


朝に兄が戻ってきて、医者の見解を聞いたところ、一旦薬で状態は安定し、今後は消耗状態になるとのこと。おそらくすぐに亡くなることはないが、いつ亡くなってもおかしくはないとのことです。私はまた一旦家に帰り仮眠して戻ってこようと思いましたが、兄が翌朝までいるとのことなので、少し安心してじゃあ翌朝にまた行こうかと考えておりました。その後に病院から状態は安定しているとの判断なのか、兄も一旦帰宅した方が良いという話があったそうで、兄も午後に帰宅することになりました。

 

 

 

🔳別れ(5月15日21時)

しかし、翌朝を待つまでもなくまた私の携帯に病院からの連絡が来ました。「心拍が弱まっています、すぐに来れますか?」とのこと。仮眠を2時間ほどしたばかりですが、今度はもう本当に亡くなってしまうかもしれない。急いで行かなければ、死に目に会えない!と猛烈に急ぎました。たどり着いた時には、すでに呼吸音の違いで状況の変化がわかりました。今までゼエゼエと荒ぶった苦しそうな呼吸音だったのが、スー、ハー、という穏やかで弱い呼吸音になっていたのです。そしてモニターに映る血圧と心拍はつい数時間前ではありえなかった低い数字になっています。そして数分どころか、常になり続けるビープ音。父の死が近いことは看護師の表情からも明らかでした。

 


もう、悲しすぎて涙も出ません。私にできることは手をさすり、肩を触って、ありがとう、今まで本当にありがとう。本当に入院してから大変だったな、とありきたりな言葉を反応のない父に語りかけることだけでした。ただし少しほっとしたのも確かです。この2晩が、本当に本当に辛そうだったから。たとえ死ぬとしてもあの苦しみから父が解放されたのだとしたら、本当によかったなと心底思いました。そして無意識ながらも時折少しむせていた父の血痰を看護師が専用の管で吸い取ってくれるのですが、おそらくそれによる生理的な反応なのでしょうが、父の目から涙が一滴、すぅっと流れ落ちたのです。

 


それがなにも意識的な反応のない父が出した別れの涙のように見えて、驚いたのも束の間。液晶に表示されていた心拍と血圧の表示が一気に弱まり、数分後に全く反応がなくなりました。今ではビーッ、ビーッと鳴り響いていた音が、一定のビーーーーという音に切り替わると、また頭の端っこで「ドラマみたいだな」とぼんやり考えながら、今この瞬間父が死んだんだな、と実感しました。

 

 

 

🔳その後

その後兄が遅れて戻り、相変わらず一滴も涙を出さずふわふわしたことを言っていたのですが正直反応する気力もなかったのでもうどうでもいいです。後は医者や看護師からもいろいろ言われましたがあまり覚えていません。母が亡くなった時も思いましたが、どんなに深夜でもすぐにくる葬儀業者ってすげぇなと思いながらやり取りを始め、そして今も葬儀の段取りや親類への連絡、遺品の整理などの処理に追われています。普段の仕事以上に面倒くさく、どうでもいいことばかりですが、この忙しさで少しでも悲しみの消化が早まるなら、それはそれで必要なことなのかもな、と少し冷静な目で見てもいます。

 

 

 

🔳最後に

この一連の文章で私が言いたかったことはただ1つです。誰もが頭でわかっていることだと思うのですが、心底理解できている人はそう多くないでしょう。「親は死ぬ。たとえどんなに元気でも。だから悔いのないよう、一緒に話をなるべくしよう」ということだけです。この約2ヶ月間、ほぼ毎日やり取りしていた私ですら、あれも話せばよかった、これも聞けばよかったと後悔しきりです。みなさんおそらくいい年なんでしょうから、みなさんの親もいい歳でしょう。みなさん仕事も趣味も子供の世話も忙しいかもしれませんが、たとえどんなに金を稼いで立場があろうと、周りからチヤホヤされようと、それ自体は実はどうでもいいことだったりします。そんなことより親と昔のアルバムを引っ張り出して昔話を聞いたり、自分と同い年くらいの時の苦労話を聞いたりする方が、人生にとって、あなたの幸せにとってどれほど大切で重要なことか、少し考えてみてください。何もそんな深い話をしなくても、くだらないテレビを見てグダを撒きあってもそれはそれでとても貴重な時間です。大切なのは、一緒に話をすること。話さなくても、一緒にいるだけでもいいかもしれません。

 

 

 

これを読んだ人が、少しでも親や周りの大切な人との関係について考えるきっかけになれば幸いです。

 

 

 

まだ葬儀も、色々ややこしそうな相続も、遠方にある墓の問題も、遺品の片付けも残っています。しばらくは父の残務処理に追われそうですが、それも父と向き合う大切な時間としてしばらく頑張ろうと思います。